河原町a.iはりきゅう整体院 井上敦之

プロフィール

名前:井上 淳之(あつゆき)さん

勤務先:河原町a.iはりきゅう整体院(京都市上京区)  職種:鍼灸師

保有資格:厚生労働大臣はり師免許証、厚生労働大臣きゅう師免許証

その他:STA手技セラピスト協会会員、抗加齢医学会会員

京都府出身。大手接骨院勤務や出張鍼灸師を経て2018年3月に開業。

引き締まった体に分厚い胸板、上腕の盛り上がった筋肉が目を引く井上さん。

中学・高校ではラグビーに熱中し、20代前半から日本拳法を続けているスポーツマンですが、“体育会系”というよりむしろソフトな印象を受けます。どうして?

今回は、そんな彼が醸し出す不思議なオーラを皆さんにお伝えしたいと思います。

◆鍼灸師とは??

はり師ときゅう師の国家資格を所持している者を指す。高等学校卒業後、鍼灸専門学校・鍼灸大学・鍼灸短期大学等の教育機関で各種の医学ならびに技術の勉学を約3年間受け卒業試験に合格した後、さらに国家試験に合格して初めて資格が取得できる。

わんぱく小僧だった幼少期。幼稚園で落第?

母親が教育熱心で、私立の有名幼稚園に通っていた彼は、とんでもない暴れん坊。『ドラえもん』に出てくるジャイアンのようなガキ大将ではないけれど、手あたり次第に物を壊す破壊魔だったと当時を振り返ります。

「年長の頃が一番酷くて、先生方が普通に叱っても効果がないから、5歳児が通う年長のクラスから1歳下の年中のクラスへ1カ月間いれられたんです。それがけっこう応えたんでしょうね。それからはおとなしくなりました」

自らを“じっとしていられないタイプ”と評する彼は、サッカー、ソフトボール、バレーボールなどのスポーツ教室に参加し、活発な生徒として残りの小学校生活を送りました。

井上敦之

人生初の師匠との出会い

地元の公立中学校に進学してバスケットボール部に入るつもりだったのに、入学してみると、その学校にはバスケ部がないことが判明し……。

「その頃、ちょっと太めだったので、ラグビー部に勧誘されて、入部しました。うちの中学は京都で12を争う強豪校。練習はとてもハードで朝練もある。僕は背も低かったし、ずっと試合には出られなかった。3年生になって体が大きくなってきて、ようやくって感じですね」

では、印象に残っているエピソードは?

「中3の最後の大会では、優勝するつもりで頑張っていました。でも、ライバル校とベスト8で当たってしまって結果は同点で引き分け。ラグビーの場合、同点だとトライ数で勝敗が決まります。トライ数は相手のほうが多かったので、そこで敗退。練習試合ではずっと勝っていただけに、悔しかったですね」

そして、ラグビー部で得た大きな財産のひとつが監督の存在。“人生の第一番目の師匠”と言わしめるほど、大きな存在だったといいます。

「とにかく怖い先生。先生が赴任した頃、ずっと学校は荒れていたのに、先生の指導によって収まったっていう『スクールウォーズ』の先生みたいでした。ものすごく怖いけど皆が慕う。誰に対しても平等で、男としてカッコよくて、『この人に認めてもらいたい! だからレギュラーになりたい!』と強く思っていました」

部員数約50人の強豪校にあってし烈なレギュラー争いにさらされながら、井上さんは着実に成長していきました。

「恥ずかしい話なんですけど、先生は、僕がケンカをした時に、それ以上にどつかれた記憶があります。当時の僕は放っておくとまっすぐ進めないというか、道を踏み外しそうになるんです。中学の時は、とにかく鉄拳制裁というか、よく怒られていたことを覚えています。とにかく熱い先生でした」

スポーツ推薦で高校への進学が決まり、中3の終わり頃から高校のラグビー部の練習にも参加。このまま順風満帆なラグビー生活を継続できるかと思いきや。

「練習は厳しいんだけど、中々、試合では勝てない。全国に行きたかったんですけど、京都でもベスト8止まり…両親は応援してくれたんですが、中学時代ほどラグビーに情熱を注げなくなりました」

そのうえ、私立だったので、広範囲からいろいろな生徒が集まり、これまで接したことのない人との出会いが、彼の世界観を広げます。ラグビーよりも遊びのほうに熱中していくことに。そして高3になったばかりの頃、とうとう…

「ラグビー部を辞めました。スポーツ推薦で入学しているので、本当なら部活を辞めたら退学なんですが、幸い退学は免れ、卒業することはできました」

悩んだ10代後半から20代

ラグビーをやめてしまったので中学校には遊びに行きづらく、自然とラグビーを避けてしまう。18歳の若者にはエネルギーを注げる何かが必要なはず。

「もともと音楽が好きで、中1の時にターンテーブルを買ったんです。その頃から洋楽を聴いていて、18歳で打ち込むものがなくなった時、趣味で自分の曲を作ったり、スケートボードにはまったり、ラクビーを辞めた反動で遊んでばかりいました」

そんな生活をするうちに、遂には、大学も退学してしまいます。

「ラクビーを辞めてからは、自分が心から熱中するものに巡り合えなくて、常に不満というか、不完全燃焼の日々を過ごしていました。大学を辞めて、親にも迷惑を掛けて、自分が情けないというか、日々、悶々としていました…」

二番目の師匠と新たな幕開け

大学を辞めてからは、スケートボードとアルバイトでどうにかエネルギーを発散させていたようです。そんな彼の人生に転機をもたらしたのは、彼の父方のおじでした。

「おじが格闘技の道場をやっていて、僕を誘ってくれたんです。日本拳法という武道なんですけど、おじはその道場の指導者で、全国大会に出るような選手でした。当時、僕は体力にも腕力にも相当自信があったんですが、40代のおじに全く歯が立たず、衝撃を受けました。次元が違うんですよ。だから、この辺でイキっててもあかんなって。心身をちゃんと鍛えようと思って、始めてみました」

「道場は朝練もあって夜も練習。昼間は清掃のバイトをしていたので、結構しんどかったですね。でも、おじという存在が、僕を正しく導いてくれる人だということが徐々にわかってきました」

「おじは、人にやさしく、自分に厳しく、弱きを助けるという武士道精神をもって実行している人なんです。純粋に僕もそういう人になりたいと思いました」

日本拳法とは?

防具を着装し打撃・投げ技・寝技・関節技などを使い、自由かつ安全に楽しめる格闘技。現在では健康のために、体力向上に、ダイエットにとても有効で、老若男女問わず全国に広まっている。

「ある時、おじに『お前この先どうするんや?』と訊かれたんです。

「全く方向性の定まっていなかった僕に、『鍼灸師になったらええやん、学校行けや』とアドバイスしてくれて。それで僕もそうしてみようと素直に思えたんです。この人の言うことなら間違いないと」

「人間的に大きくて優しい。仕事も成功者。当時、鍼灸とかその業界の知識は皆無でしたけど、迷いはなかったですね。そこで、父に必死で頼んで学費を出してもらって、鍼灸師の専門学校(夜間・3年制)に入学しました」

鍼灸の専門学校進学、未経験での就活は難航

 夜間の専門学校に通い始めても、アルバイトも道場通いも続けていたので、相当忙しい日々を送ることになりました。

「アルバイト先が中央市場だったので、夜明け前から働いて、道場にも行って、夜には学校、学校では毎週テストがあるし、とにかく暗記しないといけない。いままで、真剣に 勉強に取り組んだことがなかったので、どうすればいいかわからない。最初は、慣れるのにかなり大変でしたが、なんとか3年で卒業しました」

 はり師・きゅう師の免許を得て、晴れて就職活動を開始。しかし中々スムーズには行かなかったようです。

「求人を見て応募するんですけど、『未経験は要らない』と断られることが多くて。年齢もすでに27歳でしたから、新卒の未経験者にしては若くない。小さな所ばかり受けて落とされていたので、採用枠の多い大手に応募したら、無事に採用されました」

とうとう鍼灸師として第一歩を踏み出すことになった井上さん。どんなふうに成長していったのでしょう。

最初の配属は京都市内の接骨院。全国展開している接骨院なので、売り上げランキングを示され、数字にシビアな環境だったといいます。

「僕のいた院は、売り上げはよかったのですが、滅茶苦茶忙しかった事を覚えています。未経験で何が何だかわからないうちに、1日20人を毎日こなしていく。担当して2年目には気づくと院内で指名が一番多くなっていました」

未経験から指名No.1まで2年かからずに登りつめるとは、どんな部分がお客さんを惹きつけたのでしょう?

「正直、1年目の自分の技術はまだまだ未熟だったと思います。ただ、ひとりひとりに割ける時間が短かったので、その時間内で精一杯出来る限りの事をしようと心がけていました」

そして2年後には分院長に抜擢され、奈良の新店舗に赴くことになります。

「ゼロから新店舗の立ち上げを経験できたのは、ものすごく勉強になりました。その経験は独立した今、とても役に立っています」

新規開店で、実際にはどんな苦労や工夫がありましたか?

「寂れたスーパーの最上階、自分たちの店舗以外は何もないフロアで人が来ない。だからまず存在を知ってもらうしかない。毎日、ビラ配りをして、近隣店舗にお願いしてショップカードを置いてもらったりしていました」

「一番よかったのは、新店舗なのでスタッフ全員ヨーイドン!でスタートできたことです。みんなで何とかしようという気持ちがあって、チームの一体感が強かったです。初めて同期が出来てうれしかったし、よく皆で飲みにも行きました。同期とは今でも付き合いが続いています」

分院長として、鍼灸師として期待以上の活躍をしてくれる彼に、会社は別の期待を寄せるようになります。

「昇進して偉くなって、鍼灸師としての仕事以外にやることが増えていきました。全社会議に呼び出され、数字のことやエリア全体の事も考えなければいけない。その比重が大きくなって、大手にいる故の難しさですよね…さらに『いずれは役員になってくれ』と言われるようになって。『それは僕のやりたいこととは違う』と感じたので、会社を辞めることにしました」

こうと決めたら即行動! そしてそれを貫くのが井上さんです。

「会社からはめちゃくちゃ慰留されました。でも、3カ月ほどかけて引き継ぎをして辞めました。当時、すでに結婚していたのですが、妻には事後報告で(笑)」

そして独立して始めたのが出張鍼灸師。軌道に乗るまでは、マッサージのアルバイトをしながら実績を積んできたといいます。

「数百万借金をして、出張鍼灸師を始めたんです。1年目はお客様があまりいませんでしたが、時間がたつごとに徐々に増えてきました。実は開業した今も出張鍼灸師は続けているんですが、その頃からのお客様もいらっしゃいます」

「出張の場合、お客様の家へ直接行くわけですから、想定外のことが起こったりします。たとえば、男女を問わず、関係を迫られたりとか(笑)。そういう時は、『鍼灸師の仕事以外のことをお求めなら帰ります』と言って、お断りします」

先生と呼ばれる立場になって

出張鍼灸師で経験を重ね、2018年3月に「河原町a.iはりきゅう整体院」を開業。実際に店舗を立ち上げて、心境の変化はありましたか?

「開業によって客層が広がり、年配の方と出会える所が一番変わりました。他で良くならなかった年配のお客様が、ご紹介でうちに来て下さり、『痛みが減った』と喜んで頂けたときが、純粋に嬉しいです」

開業からまだ1年も経たないのに、口コミで人気が高まり、今は当日予約が難しい日も。何か力を入れて取り組んでいる部分はありますか?

「ちゃんとお客様の話を聴くっていうことは、日々心掛けています。当たり前だと思われるかもしれませんが、お客様のお話を聞いていると、話を聴かずに自分の考えを押し付けてくる人も結構いるみたいで…だからこそ、自分は、しっかりと丁寧に、患者さんのお話をできる限り聴こうという事は、いつも気を付けています」

忙しい日々が続き、年配のお客様と話しているときに、よく感じることがあると、井上さんは続けます。

「出張をしていた時より、お客様の方から、”先生”と呼ばれる機会が多くなった様な気がします。正直、面と向かって先生と呼ばれることに、どこかこそばゆいというか、未だに照れくさいところがあるんです。若い頃はヤンチャもしたし…僕みたいな人間が先生でいいの?って…」

「でも、最近は、だからこそ先生と呼ばれるにふさわしい人間になりたいという思いも強くなってきて…」

次の目標は人材育成

今後の目標はどんなものがありますか?

「僕自身も後進を育てたいと思っています。おじが僕の道を切り拓いてくれたように」

「この業界では、はり師・きゅう師の免許を持っていても、その仕事に就いていない人とか、自分の仕事に満足できていないとか、うまくっていないケースが多くあります。そういう人に必要な能力、自信を身に付けてもらって、いずれ独り立ちしてほしい。と考えています」

「僕が培ってきた技術力や経験でそういった若い子のサポートをしたいと思っています」

「それが、僕を導いてくれた師匠やまわりの方々への恩返しになると信じています」

取材部から一言

今回、井上さんには情熱大陸のように、幼少期からの人生を振り返って頂きました。もがいていた時期から、現在までのお話を伺って、井上さんの「真っ直ぐな情熱」や「入り込む力」に取材部も刺激を受けました。師匠と出会い始められた日本拳法も今では、全国大会で入賞されるほどに。最近では、日本拳法の道場で子供向けの指導者としても活躍されているそうです。興味を持たれた方は、是非、下記からお問い合わせください。